近年、SaaS(Software as a Service)は最強のビジネスモデルとして脚光を浴びています。定期的な収益構造や、利用者が増えるほどコストが下がるスケーラビリティ、そしてクラウド時代ならではの素早いアップデート性──その革新性ばかりが注目されがちですが、実はSaaSがここまで成長できる根本には、昔から経営戦略論で語られてきた「競争回避」という原理が深く関わっています。
多くの企業が「競争に勝つ」ために努力する一方、SaaS企業は「競争を避ける」ための構造をビジネスモデルの中に組み込んでいます。本記事では、SaaSの強さを支える二つの戦略原理――「規模の経済」と「経験曲線」――を、競争回避戦略という観点からひも解きます。新しいビジネスに見えて、実は古典的な戦略が現代のテクノロジーによって再定義されている、その本質に迫ります。
競争回避戦略とは何か?──“戦わない仕組み”をつくる
ビジネス戦略というと、多くの人がまず思い浮かべるのは「競争に勝つ方法」です。コストを下げる、品質を上げる、スピードを上げる──これらはいずれも、他社と同じ土俵で戦い、優位に立つための競争優位戦略にあたります。たとえば、低価格路線のユニクロはコストリーダーシップ戦略、高級路線のAppleは差別化戦略の代表例です。
しかし、もう一つの戦略的アプローチが存在します。それが「競争回避戦略」です。これは、“どう勝つか”ではなく、“どう競争そのものを避けるか”を目的とした戦略であり、戦わずして勝つための仕組みづくりに重点を置きます。市場内で目立たずに生き残るのではなく、市場の構造そのものを変えたり、新たな土俵を作り出すことによって、そもそも競争が発生しない状態をつくり出すのです。
■ 競争回避の3つの代表的アプローチ
- ネットワーク効果(Network Effects)
ユーザーが増えれば増えるほど、プロダクトの価値が高まる構造。たとえばSlackやZoomなどのSaaSは、社内に導入された瞬間から“社外とも連携するなら同じツールが望ましい”という動きが生まれ、後発が入りにくくなる。ユーザー同士が価値を補完しあうため、一度優位を築くと雪だるま式に強くなる。 - スイッチングコスト(Switching Costs)
既存顧客が他社製品へ乗り換える際のコストや手間の高さ。SaaSでは、データの移行やUIへの慣れ、社内教育コストなどが典型例。SalesforceやHubSpotなどは導入後の定着率が高く、他社に切り替えるハードルが非常に高い。“やめられない構造”が競合を遠ざける。 - 参入障壁(Barriers to Entry)
新規参入者が市場に入るために乗り越えるべき障害のこと。規制や特許だけでなく、ブランド力や先行投資、パートナーエコシステムの有無もこれにあたる。たとえばShopifyは、多数の開発者・アプリ・テンプレートを囲い込んだエコシステムを築いており、単なるECツール以上の存在になっている。
これらのアプローチは、いずれも「後発が簡単には追いつけない構造」を生み出します。そして重要なのは、それらが事後的に生まれるのではなく、事業の設計段階から意図的に組み込まれていることです。
こうした競争回避の考え方は、必ずしもSaaSに限った話ではありません。たとえば、スターバックスが都市中心部に密集出店するのも、土地・立地を囲い込むことで後発を寄せ付けない戦略です。セブン銀行のATMがコンビニに大量展開されているのも、ネットワーク効果と利便性によるスイッチングコストの組み合わせと言えるでしょう。
しかし、この競争回避戦略を“構造的かつ継続的”に実装できるビジネスモデルは限られており、その代表格がSaaSなのです。SaaSは、製品特性として「利用継続」が前提であるため、時間をかけて価値が積み上がっていく構造をとりやすい。そして、ソフトウェアの性質上「複製コストがゼロに近い」ため、大量に使ってもコストがほとんど増えず、参入障壁とスケールメリットの両立が図れます。
このように、競争から逃げるための構造を最初から組み込むことが、現代の戦略的優位の鍵になっており、それはSaaSによって最もわかりやすく示されています。次章からは、SaaSがいかにしてこの競争回避を実現しているのか、「規模の経済」「経験曲線」という2つの古典的戦略を軸に具体的に解説していきます。
戦略原理1:規模の経済──“静的な競争回避”
競争を回避する戦略の中でも、最も古典的かつ強力な原理のひとつが「規模の経済(economies of scale)」です。この概念は19世紀末の工業化時代から存在し、大量生産を通じて単位あたりのコストを下げるという仕組みは、製造業を中心に広く使われてきました。そして今日でも、この原理は競争を避けるための“構造的な武器”として機能しています。
規模の経済の本質は、「大量に作った(売った)ほうが有利になる」という点にあります。設備投資、研究開発、広告宣伝、物流ネットワーク、管理部門など、多くのコストは“固定費”で構成されています。つまり、売上が増えれば増えるほど、これらの固定費がより多くの顧客に分散され、1顧客あたりのコストが劇的に下がるのです。
この仕組みは競争回避の観点から見ると非常に重要です。なぜなら、「後発が同じ品質・価格で勝負しようとすると、採算が合わない構造」を作れるからです。先に大きなシェアを取り、コストを下げ、さらに価格を引き下げて市場を固める──これが典型的な規模の経済による競争排除です。古くはフォードの自動車生産がその代表例でしたし、現代でいえばAmazonが物流網を使って競合を圧倒しているのも、まさにこの原理によるものです。
この「規模の経済」は、一見すると製造業や物流業の専売特許のように思われがちですが、実はSaaSのようなデジタルビジネスでも極めて有効に働きます。
たとえば、SaaSは開発や運用に初期投資がかかる一方で、1人のユーザーが増えるごとにかかる追加コスト(限界費用)は極めて低いのが特徴です。つまり、開発費・インフラ費・カスタマーサポートなどの固定費は、ユーザー数が増えるほど1ユーザーあたりにかかるコストが下がり続けます。SlackやNotionなどがユーザー数の拡大に比例して急激に収益性を高めていけるのは、まさにこの構造があるからです。
さらにSaaSには、「1つ作れば何千、何万という顧客に同時に提供できる」という同時性のスケールメリットも加わります。製品を「工場で1個ずつ製造する」のではなく、「クラウドに1つ作って配信する」ため、提供コストはほぼ横ばい、あるいは逓減していく一方です。
このように、デジタル空間での規模の経済は、物理的制約を超えて爆発的なスケーラビリティを実現することができ、従来の規模の経済をさらに進化させたものと言えます。そしてそれは、「先にスケールした者が、構造的に有利になる」という点で、極めて強力な競争回避戦略となるのです。
次章では、規模の経済と並ぶもう一つの古典的戦略「経験曲線」について見ていきます。これは“時間”を味方につけて競争を回避する、もうひとつの力強い原理です。
戦略原理2:経験曲線──“動的な競争回避”
規模の経済が「どれだけ多く作るか(売るか)」という“現在の規模”によって優位性を築く静的な戦略であるのに対し、もう一つの古典的競争回避戦略である「経験曲線(experience curve)」は、“これまでどれだけ積み重ねてきたか”という時間軸の積分的な強さに基づいています。これは「使えば使うほど、作れば作るほど、より効率的になる」という、成長と学習に根ざした原理です。
経験曲線は、もともと製造業の現場から導き出された概念で、特定の製品の累積生産量が2倍になるたびに、製造コストが一定割合で低下するという統計的な法則として知られています。たとえば航空機製造の世界では、1機目を作るよりも10機目、100機目の方が圧倒的に速く、安く、ミスも少なく作れるという現象が報告されていました。これは、工程ごとのムダが除かれ、作業者の熟練度が上がり、部品の最適化や設計改善が進んだ結果です。
このような現象は、製造業だけでなく、現代のSaaSにもそのまま適用できます。むしろ、ソフトウェアの世界においては経験曲線の効果はより深く広範囲に及びます。
SaaSにおける経験曲線は、以下のようなさまざまな領域に波及します。
- プロダクト改善の加速度
ユーザーのフィードバックや行動ログをもとにした継続的なUI/UX改善。NotionやFigmaのようなSaaSでは、利用者が増えることで得られるデータが蓄積され、それをもとに改良が高速で行われるようになる。これは単なる改善ではなく、使われるほど洗練されていく構造的強化である。 - カスタマーサクセスの高度化
顧客の導入支援・定着・アップセルの成功パターンが蓄積され、オンボーディング手法やナレッジベースが強化される。特にエンタープライズ向けSaaSでは、カスタマーサクセスチームの熟練度が解約率(チャーンレート)を大きく左右する。 - 営業・マーケティングの最適化
どのターゲット層にどんなメッセージが刺さるか、どのチャネルが最も費用対効果が高いかなど、時間とともに「勝ちパターン」が明確になっていく。蓄積されたCRMデータが予測的な営業活動を可能にし、後発が同じ効率を得るには膨大な学習期間が必要となる。 - 組織・開発プロセスの進化
社内の開発フローやプロダクトマネジメントの進化もまた、経験曲線の一部である。特にSaaSのような高速PDCAが要求される業態では、「組織としての学習速度」自体が競争優位になる。
このように、時間の経過とともに得られる“学習と改善の蓄積”が、模倣困難な差異を生み出すのが経験曲線の本質です。これは「すぐに勝てる」ものではなく、「やり続けた者が、気づけば勝っている」タイプの戦略優位であり、まさに動的な競争回避の典型と言えるでしょう。
SaaSにおいては、プロダクトが「使われるほど強くなり」、組織が「運営するほど熟練する」という構造を持っているため、この経験曲線効果がビジネスモデルそのものに内在しています。そしてこれが、後発組にとって「同じことをしても追いつけない」と感じさせる強力な壁となるのです。
次章では、この2つの原理――規模の経済と経験曲線――が、SaaSというモデルの中でどのように組み合わさり、“競争しない強さ”を作り出しているのかを解き明かしていきます。
SaaSはなぜ“競争回避”に向いているのか?
ここまで見てきたように、「規模の経済」と「経験曲線」は、いずれも古典的な競争回避戦略として知られています。SaaSが注目される真の理由は、この2つの戦略原理を同時に、かつ構造的に内包している点にあります。言い換えれば、SaaSというモデル自体が“競争しない仕組み”になっているのです。
まず規模の経済について。SaaSは本質的に「ソフトウェアをクラウド経由で多数に提供する」ビジネスです。物理的な在庫も配送も不要で、同じプロダクトを1万人が使っても10万人が使っても、追加のコストはわずか。つまり、ユーザー数が増えるほど、1ユーザーあたりのコストが下がっていく構造になっています。
さらに、SaaSには「継続課金モデル」という特性もあります。1回売って終わりではなく、毎月または毎年のサブスクリプション収益が積み上がっていくため、先行者が時間とともに圧倒的なキャッシュフローを得ることができ、その資金を使ってさらに市場支配力を高めていく──という“勝者総取り”の構造が生まれます。
一方、経験曲線の側面でもSaaSは極めて優れた適合性を持っています。ユーザーとの接点が日常的にあり、利用データや問い合わせ内容、フィードバックがすべてクラウド上に記録されるため、改善・学習の速度と精度が飛躍的に高いのです。A/Bテストの反応、チャーンの傾向、サポートにかかる工数など、あらゆる要素が数値で把握され、それに基づく改善が可能になります。
特にSaaSでは、導入企業ごとの事例(ユースケース)が積み重なることで、営業・マーケティング・サクセスの各領域における「勝ちパターン」が体系化されていくという側面があります。これによって、後発企業が単に同じプロダクトを模倣したとしても、蓄積された運用知見まで含めて再現することは極めて困難になります。
また、顧客と長期間にわたって関係を維持するSaaSの性質上、スイッチングコストも高くなります。導入時の社内教育、データ移行、業務フローの適合など、SaaSは一度定着すると「乗り換える理由がない」プロダクトになりやすい。これは経験曲線の延長線上で生まれる、関係性の蓄積というもう一つの“見えない資産”とも言えます。
つまり、SaaSは、
- 「規模が拡大するほど有利になる静的な競争回避(=規模の経済)」と、
- 「使われるほど洗練されて真似できなくなる動的な競争回避(=経験曲線)」
の両輪を自然に組み込んだビジネスモデルなのです。そして、それらがプロダクト・組織・収益モデルすべてにまたがって複合的に作用することにより、後発が追いつけない“構造的な優位”を形成しています。
このように、SaaSは単なる「ソフトウェアの提供手法」ではなく、「競争しないで勝つ」ための戦略原理が高度に統合されたモデルです。だからこそ、スケールしたSaaS企業は、長期的に圧倒的な利益率と市場支配力を発揮することができるのです。
次章では、こうしたSaaSの構造から見えてくる、“戦略”における本質的な教訓──つまり「新しさ」ではなく「構造」に目を向けるべき理由について考察します。
結局「昔から言われていること」をどう活かすか──“構造”を見る視点の重要性
SaaSのような新しいビジネスモデルを分析するとき、私たちはつい「どんな機能があるか」「どんなテクノロジーが使われているか」といった表面的な特徴に注目しがちです。しかし、その成否を分ける要因の本質は、むしろ“どんな構造が組み込まれているか”にあります。そしてその構造こそ、実は古くから知られてきた戦略原理の応用に過ぎないのです。
「規模の経済」も「経験曲線」も、決して新しい概念ではありません。どちらも20世紀中頃には確立され、経営戦略や産業構造論の教科書に必ず登場する基本的な理論です。ではなぜ、今になってこれほどまでに強力に機能しているのか? その理由は、テクノロジーの進化がこれらの戦略原理を“実装可能”にしたからにほかなりません。
クラウドインフラ、リアルタイムなデータ収集、継続課金モデル、APIによる拡張性──こうした技術的基盤が整ったことで、SaaSは古典的戦略を現代のビジネスに再構成することに成功しました。つまりSaaSの強さとは、「新しいから強い」のではなく、「昔から強いとわかっていた構造を、現代の手段で実現している」ことにあるのです。
この視点を持つことは、SaaSを模倣する側、あるいはこれから新しいビジネスを作ろうとする起業家にとって極めて重要です。多くのスタートアップが「ユニークなアイデア」や「目新しい機能」に固執しがちですが、それらは往々にして模倣可能であり、時間が経てば競争に巻き込まれてしまいます。大切なのは、そのビジネスモデルが“競争を避ける構造”を持っているかどうかです。
たとえば、単発で終わる収益モデルではなく、継続性のある収益構造になっているか?
ユーザーが使えば使うほど改善が加速する仕組みがあるか?
導入・定着・アップセルまで一貫したノウハウを蓄積できるか?
こうした構造的な問いが、戦略設計においては圧倒的に重要になります。
また、この構造的視点は、ビジネスモデルの「真似を防ぐ側」にとっても力を発揮します。後発が現れても、同じプロダクトを作ることはできても、同じ学習量やスケール感、組織文化を再現することはできない。これこそが、真の参入障壁であり、競争回避戦略の完成形です。
だからこそ、表層的な技術やアイデアの“新しさ”ではなく、どのような「戦略構造」がそこに組み込まれているのかに目を向けることが、長期的なビジネスの強さを見極めるうえで不可欠なのです。
まとめ
SaaSというビジネスモデルは、一見するとテクノロジー主導の新しい潮流に見えますが、その本質は決して目新しいものではありません。むしろ、「規模の経済」と「経験曲線」という、古典的かつ普遍的な戦略原理を、現代のテクノロジーで最適化した結果生まれた、“構造的に強いモデル”だと言えます。
SaaSは、多くの人が注目するような「競争に勝つビジネス」ではなく、「そもそも競争が起きにくい構造」をつくる、いわば戦わない戦略の完成形です。静的な優位性(スケール)と動的な優位性(学習)の両面を備え、後発が真似をしようとしても、その差は時間と共に広がる一方です。
本記事を通じて伝えたかったのは、「新しいから強い」のではなく、「強い構造を持っているから強い」という視点の重要性です。競争に巻き込まれないための“見えない戦略”は、いつの時代も、静かにしかし確実に企業の優劣を分けています。だからこそ、私たちは“何をつくるか”と同じくらい、“どんな構造で勝つのか”を問うべきなのです。
新たな事業戦略へのチャレンジやビジネスモデルの見直しを行なう際、伴走が必要な場合や何かご不安に感じる点がある場合はぜひお気軽にご相談ください。